以前、『いのちのパレード』を読んで、何とも不思議な感覚にとらわれた記憶がある。あの感覚をもう一度、というわけである。
恩田陸『私の家では何も起こらない』(文庫ダ・ヴィンチ、2013年2月)
本書は、どこか海外の、小高い丘の上にある古ぼけた屋敷を舞台にした10の短編の連作である。作家自身の言葉を借りれば「お座敷もの」の集大成だそうである。
古ぼけた屋敷。今では幽霊屋敷と呼ばれる。
ここに一人の女流作家が引っ越してくる。誰も住みたがらないこの屋敷には、過去に凄惨で猟奇的な事件がいくつかあり、人を寄せ付けない気配が漂っている。
その屋敷に引っ越してきた作家。この作家の叔母は、20年以上も前にこの屋敷の主だった。そこに吸い寄せられるようにやってきた。
やがてこの屋敷にまつわる過去の出来事が語られる。
面白いのは、短編ひとつひとつの視線である。
語り手はすべて過去に起こった事件の当事者たち。それはアップルパイを焼く姉妹であり、幽霊の研究者たちであり、誘拐された子どもたちであり、あるいは屋敷の修理を任された大工の親子たちであり・・・。それぞれが自らを襲った事件、あるいは巻き込まれた状況を語っていく。
物語自体は軽いタッチで進む。そして時々、ゾクッとする場面が登場する。たとえば「奴らは夜に這ってくる」は、描かれた情景を想像して終始背中がゾクゾクした。しかしそれは、たとえ猟奇的であったとしても、奈落の底に突き落とされるような恐ろしさではなく、ほんの一瞬の恐さで終わり、その後は滑稽でさえある。
決して謎解きものではないが、最後の1編「附記:われらの時代」で、それまでの物語の「総括」が行われる。あればあったで『なるほどね』と思えないこともないが、なくてもまとまりのある短編集ともいえる。
モチーフとして語られるのは生者と死者の交流である。これは外題ともなった「私の家では何も起こらない」の中のセリフとして使われているが[p.9]、この屋敷の中では生者と死者が同じ位置付けで採り上げられている。死者の影を見た生者はおののく。読み手もおののく。(笑)
そしてもうひとつ、一番最後に哲学的なセリフが引用される。
「世界は人類なしに始まったし、人類なしで終わるだろう。」[p.209]これはレヴィー・ストロース(フランスの哲学者)の一節を引用したようであるが(実はストロースのことはほとんど知らない・・・苦笑)、この世は人類が生まれる前には人類はなかったし、人類が滅びたのちにも人類がいないということから、人類がいる間(期間)に存在するものは生者と、最期となった死者のみということになる。であれば、生者と死者が同じ位置関係で語られても不思議ではない。
本書のどこかで語られていたが(ブックマークするのを忘れた)、今現在、生者しかいないからといって、死者とは無関係であるとはいえない。なぜなら、その土地には長い歴史があり、住んでいる人が知らないだけで、その土地で、その家で、いつの時代にか人が死んでいるのかもしれないのである。そしてそうであれば、その土地、その家には死者が存在していることになる。生者と死者はいつも「共存」しているのである。
なかなか面白い発想である。
『いのちのパレード』とはまったく異なるジャンルであるし(空想するという点では同じかもしれないが)、何より読みやすさがどんどん小生を生者と死者の交流に引き込んでいった。そして気が付けば、時計の針は午前3時を指していた。
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